現在、イタリアの付加価値税は20%。その結果、みんなが踏み倒す方向に向かった。

20%もの税金を払うくらいなら、10%引きにするから、おたがいネーロ(闇)にしないか、と持ちかける者が増え続けた。領収書を切らず、現金だけをやりとりして、取引は無かったことにし、納税の義務そのものを消滅させる。これに対して、政府は、購入者は店に対して領収書を請求し、その領収書を店の外まで持って出なければならない、と義務づけ、これに違反する購入者の方に、最高十五万円もの罰金を科して取り締まることにしたが、取り締まりが追いつかない。

このラヴォーロ・ネーロ(闇仕事)は、いまや雇用にまで及んでいる。つまり、なにごとも無料のボランティア、ということで仕事をする。実際は現金が払われるが、それはあくまでチップ。表向きは雇っていないことになっているから、雇用側は所得税などを源泉徴収して納税したりしない。雇用が継続されることもないし、事故があっても雇用側は知ったこっちゃない。イタリアの失業率は、現在9%近い高さだが、それでも、みんながなんとか生活できているのは、裏にこんなカラクリが潜んでいるからだ。

高税は地下経済の温床 - 純丘曜彰(アゴラ) - BLOGOS(ブロゴス) (via futureisfailed)

すげぇな…

(via qawsklp)

物事には途中で線形性を失うことがほとんど。自称経済の専門家達はどう考えているのかな

(via moutoku)

(via aobouzu)

ほとんどの人が、たいしたキャリアもなく一生を終える。それは、その人がサボってきたことを意味しない。その人が、その場その場でがんばって働いてきても、「たいしたキャリア」など身に付かないことも多い。それだけの話。労働市場で高く評価されるキャリアがあろうがなかろうが、幸せになっていい。
Twitter / kawazoemakoto (via deli-hell-me)

(via deli-hell-me)

それは吉本隆明さんという方が
ある犯罪に際して話された言葉なんですね。
日本で15年くらい前、
ひとりの子どもが殺されて、首を切りとられ、
その首だけが学校の門の前に置いてあったという
事件がありました(神戸連続児童殺傷事件)。
そしてその事件は当時、
非常に猟奇的でスキャンダラスなニュースとして、
毎日、報道されていたんです。

でもその先生は、
メディアがその事件について
「人間のやることじゃない」
「犯人は常軌を逸している。信じられない」
といった論調で騒いでたときに、
「いや、犯人が特別というのは、違うんだ。
 人間にはもともと歴史的に
 そういうことをしていた時代もあるんだから」
ということを言ったんです。
人間がやってきた歴史の中には
たとえば日本でも、武士が手柄のために
相手の首をさらしていた時代もある。
だから、その事件についても
「スキャンダラスな事件としてではなく、
 『人間がやりうること』として捉えています」
と、おっしゃったんですね。

それでぼくは、その言葉を聞いたとき、
自分がいかに、
いまの時代、いまいる場所の考え方に
とらわれているかについて
反省したんです。
ジャレド・ダイアモンドさんのクリアな視点 - ほぼ日刊イトイ新聞 (via poochin)

(via deli-hell-me)

人を殺しちゃいけないというルールの存在理由として、「殺す自由と殺されない安全の等価交換」という以上に端的な説明を今までみたことがない

Twitter / shinzaki (via ashitatsu)

なぜ「なぜ人を殺してはいけないのか」を問う人間は「自分が殺されるかもしれない」という考えに及ばないのか

(via bbk0524)

(via deli-hell-me)

隣り合わせの独房に入れられ、壁をこつこつとたたいて通信しあう囚人ふたり。壁は、ふたりを分けへだてているものであるが、また、ふたりに通信を可能にさせるものでもある。わたしたちと神のあいだも、そんなぐあいだ。どんな分けへだても、きずなになる。
シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』 (via rob-art)

(via deli-hell-me)